たんぽぽ。

20200415たんぽぽ

玄関わきに“こぼれ種”から成長したオダマキが咲いている。

20200415オダマキ

つるバラの“春がすみ”が茂り出した。可愛いピンクの八重のミニバラです。

20200415春がすみ

先日、物置をゴソゴソしていたらなんとマスクが出てきた!!この時節にありがたい!!

20200415マスク

左のエリエールのマスクは使いかけ。10枚のうちの7枚が残っていたのを医療従事者のおとーに提供しました。
右のマスクはガーゼマスクで未使用なんだけどやけに小さい・・・。昔は皆このサイズだったんだよね。アベノマスクで配布されたマスクが『小さい‼』と話題だけど、多分このタイプのマスクなんだろうな・・・。
近所の10歳位のお子さんの親御さんに「小さいマスクですが要りませんか?」と声掛けしたら「今は子供用でも大きいので・・・」とやんわり断られた(笑)
勿体ないのでこれをハンカチでくるんでハンカチマスクとして使えばそれなりに使えるかも♪

 

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相変わらずのAmazonプライムっ子の私はずーっと『ブラウン神父の事件簿』を見続けてた。

20200415ブラウン神父の事件簿

 

主人公のブラウン神父、ハリーポッターの映画で赤毛のウィーズリー家のお父さん役で出演していたらしい(・・・と言われても全然思い出せない(汗))。
それよりもこちらの役どころの方がドハマりにハマりまくって大人気シリーズとなり、イギリスではシーズン7まで放映されているらしいがAmazonプライムではシーズン5までしか見ることができない。
早く続きをお願いしますよ、Amazon様。(*- -)(*_ _)ペコリ

 

大抵、推理(刑事)モノって主人公はNux-v.やArs.っぽい刑事が出ていることが多い。
Nux-v.やArs.は何があってもとことんやり抜くタイプ。そうやって難事件に挑み犯人を追い詰めていく。
私の敬愛するフィリップ・ベイリー氏は『レ・ミゼラブル』のジャヴェール警部はArs.だと著書に書いていて、
残酷なジャヴェールの偽善性は秩序への愛の現れであり神への愛の現れではない、と説明している。

片や、同じく次々と難事件に挑んでいく上記のブラウン神父は明らかにSulph.タイプ。
Sulph.はINSPIRATION(ひらめき)の人で、且つECCENTRICITY(いわゆる変人)。
情熱的で論理派、知的な面において独創的、ソクラテスやアインシュタインがSulph.の人であったと言われていて、
私的に現存する生身の人間でMr.Sulph.ともいえるのは腱引きの小口先生なのですが、
小口先生を見ていると「ハーネマンもこういう人だったんだろうな」と納得しちゃうので、
ハーネマンも間違いなくSulph.でしょう(笑)

ブラウン神父は真摯に己を職務を全うする傍ら、
ビールやワイン、そして競馬を(わりと頻繁に)嗜み、
借りた図書を何冊も延滞して秘書に怒られたり、
ちょっとガラの悪い友達の錠前破りの手口を見て覚える等かなり神父としては破天荒なのですが、
友人(?)であるルパン並みの大泥棒の脱獄の手助けをする羽目に陥った時はさすがに躊躇します。
そんなブラウン神父にその大泥棒は「本当は今すごくワクワクして楽しいんだろ?」とからかうシーンがあって、
自分が楽しめることに対して貪欲なSulph.像をよく表しているなぁ、と思うのです。

 

 

ブラウン神父のシーズン6を待っている間に、つなぎとして見始めたのが『ウィッチャーの事件簿』。

20200415ウィッチャーの事件簿

 

 

うわー、主人公、地味すぎ~。

って1話目でびっくりしたんだけど、
でも主人公のウィッチャーは1話目では警部、2話以降は私立探偵で、
探偵って目立っちゃいけない職業だし、これくらいがリアルだよね、って妙に納得しながら観ている。

ドラマとしてどれもなかなか珠玉の作品で、これもシリーズ化すればいいのに、と思うのに、
シーズン2が出ていないのが残念。。。

 

 

 

っと、今日はAmazonプライムの話をする予定ではなくて、
ハーネマンが語る『全体像』というものについて、ちょこちょこっと書くつもりでした。
もう眠いけれどあと少しだけ書きます。

 

 

 

・~おとーと私の会話~・

「よくホメオパシーでは『全体像を見るように』とか『マインド重視』っていうじゃない?」と先日私がおとーに振ってみると、
「ハーネマンは『マインド重視』とは言ってないよ。それはハーネマンの後の人から」とおとーが教えてくれた。
「えっ?そうなんだ!ハーネマンは言ってないんだ!」
「うん」
「じゃあその『全体像』だけどさ、『全体像』ってさ、全部ひっくるめてって意味でしょ?些末なところばかりにとらわれずに俯瞰的に捉えよ、ってな感じの意味かな、って思うじゃない?」
「うん」
「でもさ、それは『捜査の基本』ともいうべきものでごくごく当たり前のことじゃない?(←頭が推理ドラマ脳)」
「うん(笑)」
「そんな当然のこと、わざわざハーネマンみたいな人が言うと思う?」
「ほぉ~」

根が私より真面目なおとーは早速本棚からオルガノンを引っ張り出してきた。

【18章】
症状の全体像以外に、病気において見いだせるものは何もない。
また、症状の全体像以外のものによって病気は治療に必要なものを表現することはできないだろう。

 

「全体像が大事、なんて言っていないじゃん」と私(スミマセン、オルガノン、ろくに読んでませんでした)。
「そもそも『全体像』ってなによ」

 

 

実はオルガノンには『全体像』についての詳しい説明ってなくて、
一昨年のジェレミーの講義ノートもさっき確認したら、ジェレミーも同じこと言っていた。

「このオルガノン、翻訳がわかりづらいんじゃない?」
「あのね、原本もかなりわかりづらい、って評判なんだよ」とおとーがくすくす笑ってる。

よく「読むごとに解釈の幅が広がってくる」ってな風にオルガノンを評する人も多いが、
これは文学作品じゃなくて医学書なんだから、それはちょっとマズいんじゃないだろうか?

 

オルガノンをわかりにくく感じさせる要因はいくつかあるんだが、
ハーネマンが当時の医術や医者に対しての怒りをぶち込んでいるのが大きいんじゃないかと思ってる(いわゆるスターウォーズでいうダークサイドのエネルギーを使っちゃったんだな!)

 

当時の医者がろくに調べもせずに、空想された病原物質を見つけたと思いこんだり、または憶測によって内的な異常をでっち上げたりしてることに対してハーネマンは、
「彼らは何かあるものを見ているのだが、何を見ているのかわかっていなかった」
と表現している。
見えるものは常に変化し、どうしてそうなるか説明がつかない。
この『見えている何か』を『全体像』と言っているんじゃないか?

 

あー、もう眠いので、続きは又後程~。

 

では。