あけましておめでとうございます。
昨年は3匹のにゃんずが特に大病もせず過ごせたことが何よりも良かったです。
(少々の不調をレメディで対処したことは何度かあったのですがその話は又別の機会に)
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私は再来月には54歳になります。ちょっとびっくりです。
去年からプールに行き始めたのですが、塩素のせいかハタマタ加齢のせいか肌が乾燥し全身から粉が吹きました。
ボディクリームとか嫌いだったんだけれど好き嫌い言っていられないなぁ(涙)しっかり対策しないと駄目ですね。
話が逸れちゃいましたが、長く生きていると何かの拍子に感じた“モヤモヤ”がたまってきませんか?
「えっ?それってどういうことだろう?」とか「なんか違うような気がするんだよね」とか・・・。
私はそういう時はクエスチョンの旗が立つんです。頭の中に。で、それはずーっと片隅に立ってる。
面白いものでずーっと後になって解明に至るヒントが目の前に現れたりするんですよね。それこそ10年後とか20年後とかに(笑)
歳をとるのも悪くないね(^^)
で、今年の正月は10年以上立っていたそんな“旗”のひとつが解決したのでそのお話を書こうと思います(枕長かったなー(笑))
私は30代後半にホメオパシーを学んだのですが、
それまでそういう業界の人(ホリスティック療法に興味があるスピリチュアルな人々)と接したことがなかったので、
最初は(というか結構長い間)カルチャーショックを受けていた。
スピリチュアルな人たちってエモーショナルで独特な考え方をするでしょ?
で、それを象徴する以下のようなやり取りがあったんです。
「私ね、この前ね、これこれこんなことがあって大変だったの~」って話をホメオパシー仲間にしたときに、
「それはきっと意味があったんだよ」って言われて
(「え?・・・それって宗教か何か?」)と私は超困惑( ‘ᾥ’ )
スピリチュアルな人たちに馴染んでいく過程で「あー、この人たちってこういう考え方をするんだな」と追々慣れたのですが、
私は「意味があること」も「意味のないこと」もどちらも生きていれば普通にあるでしょ、って考え方で、
むしろ全てに意味がある・・・・なんて考え方をイチイチしていたら疲れるし、それに「なにひとつ無駄にしたくない」っていう相手の決意?が見えてくるようなのは重くてちょっと引いてしまう(苦笑)
人生は無駄だらけ。
でも無駄ではないこともあります。
・・・そもそも無駄って楽しいよね?
これが私のスタンスです。
このスタンスはこのままでいいのだけれど、
そのホメオパシー仲間の「きっと意味があったのよ」って言葉は明らかに私を慰める(元気づける)ための親切な言葉であったに違いなくて、でもそれって全然意味わかんなくて、いったい相手の思考回路はどうなっているんだろう?という長年の疑問が今年の正月二日にだらだら観ていた脳科学者のyoutube動画でやっと解明しましたー✌
結論から言うと「きっと意味があったのよ」というのは認知的不協和を解消しようとした言葉。
認知的不協和とは、自分自身の中に矛盾する情報や気持ちがあると不快感や不安を覚える状態のこと。
認知的不協和を説明するのによい例えの理論が二つあって、
ひとつは“酸っぱい葡萄理論”(イソップ童話の有名なお話からきています)。
これは手に入れることができなかったものについて「どうせたいした価値はない」と考えることで、自分の感じる悔しさや敗北感などの負の感情を紛らわせる心理メカニズムを言います。
【美味しそうな葡萄が食べたい】vs【とれない葡萄をあきらめる】→【あの葡萄は酸っぱいと思い込む】
(「とれなかったんじゃない、酸っぱいからとらなかったんだ」と事実を正当化してしまう)
もうひとつが“甘いレモン理論”。
これは葡萄パターンとは逆に簡単に手に入ったものを「価値がある(甘いレモン)に違いない」って思い込むこと。
【甘い果物が食べたい】vs【酸っぱいレモンしかない】→【このレモンは甘いと思い込む】
(「酸っぱくなくて甘いんじゃー」って認知を修正してしまう)
“酸っぱい葡萄”にしても“甘いレモン”にしても、
自分の都合のいい理屈で欲求と現実のギャップを埋めようとしているのです。
で、私が言われた「それは意味があったのよ」というのは“甘いレモン理論”的に認知的不協和を解消しようとしている言葉。
大変な思いをしたのにそれが徒労に終わるのは辛い、受け入れ難いと感じてしまうであろう事柄に「いやいや、それは意味があったんだよ。実は甘いレモンだったんだよ」と認知の修正を試みたのだと思うのです。
なんかね、せっかくの親切な友人のお言葉を否定的に捉えるのは申し訳ないのですが、
勝手に他人の認知を修正しようとしないで下さい。大きなお世話です… (。-`ω´-)キッパリ!!
・・・でも実はこの認知的不協和の解消って日常生活の中で普通に繰り返されていること。
いいんですよ、日々ご機嫌に過ごすためには認知的不協和を解消しようとする行為は必要だと思うんです。
でも無意識に使ってしまうのは現実逃避以外の何物でもないので、
負の感情というものはごまかさずに一旦は飲み込んだほうがいいんじゃないかな?
変に認知や事実をこねくりまわさずにそのまま受け取るのって時には凄く厳しいことだけれどね。
一生お花畑に住み続けるのならそれでもいいのかもしれませんが、常に自分を騙し騙し生きていくのはなんだか寂しいと感じます。
ということで、
今年も宜しくお願い致します。