日陰花壇のユリが咲いた。(日向に置いている鉢植えよりも早くの開花!)シュガーラブ。すくすくと大きく立派に育ちました。

20190529シュガーラブ

 

志賀高原の木村さんから届いた行者ニンニクの鍋。美味かった。

20190529行者ニンニク鍋

 

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これはあるセミナーのチラシ。

20190529チラシ

 

何のチラシかわからないよね。でもそれでいいんです(笑)

私が注目したのは「自分の身体につながる」というタイトル。

 

 

とうとう、日本人もこういう表現を普通にするようになってきたか・・・と感慨深くなった。

去年、ジェレミーの公開セッション受けた時にも
「自分の心と身体がつながっている感覚がありますか?」と質問され、

そんなこと考えたことのなかった私は、

「つながっている・・・と思います」

と言葉に詰まりながら返答したら、ジェレミーはちょっと残念そうな顔つきをしていた。

 

別の日に、やはりジェレミーの違うケースの公開セッションの時に、
そのクライアントが「もう心も身体もボロボロという感じで・・・・」と表現したら、
二重性だったかな?・・・ジェレミーはそういうルブリクスを(嬉しそうに)拾ってきた。
通訳の方はとても優秀な方なんだけれど、
クライアントの「心と身体がボロボロ」というのはホール・・・全体というニュアンスで言っていたのが、
ジェレミーの感覚では「心」と「身体」が明確に二つに分かれてしまった、もしくはその二つが別々のままボロボロになった、って捉えたんだな、と私は感じた。

一神教の人たちって、「心」と「身体」を明確に分けて考える。
確かに日本人も「心」と「身体」を別々にとらえているには違いないが、一神教の宗教がベースにある人とは全然レベルが違う。
一神教(キリスト教)の世界は心身二元論の立場をとっている。心身を分離して、心の方だけ自分(ま、極端な言い方だけれど)だという考え方。
霊魂の不滅を考えると、肉体を自己と考えるのは不都合。
例えば小指を切り落としたらその分肉体は減るけれど「私自身」が減るわけじゃないという考え方を西洋人はする。
このことで養老孟子は著書でイジワルなことを言っている。

「小指を切り落としても自分は自分なのはわかるが、小指の大きさの脳みそを切り落としても自分は自分でいられるのか?自己は変わってしまうんじゃないか?」

西洋人にとっては意識的な自己のみが「自己」なのである、と、そして、
日本人の「無意識の本質的確信」についての本も養老氏は書いていてそれも面白いよ。

 

と、ヤヤこしい話はこれくらいにしておいて、
だから、一神教の信仰を背景に持つジェレミーが心身の感覚を別個に捉えたがる傾向があるのも仕方のないことで、
で、多くの日本人はそれを「?」って感じるのは当然、と考えていたのだが、
最近、巷ではすっかり日本人の感覚が西洋化されてきていて、
「私は私」(←自己の意識化)的な歌のフレーズが流行ったりするのを日本人として「なんだか気持ち悪いなぁ」と感じていた。
その上久々に、西洋気質かぶれのチラシのタイトルをみて、又気持ちがモヤモヤとしたのでした。

 

でもね、本来の日本人はそんな感じ方しないんだよー、
ってアラフィフのおばちゃんが騒いだところで、
世間は変わっていくんだし、
そういう言葉遣いを“オシャレ”として捉える人たちもいるんだから仕方ないか。。。

 

 

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プルービング日誌。

5/28~5/29

昨夜から不調で、
今日は夕方までベッドで寝ていた。
酷い頭痛・吐き気・下痢に見舞われ、
Ant-t.が効かず、Plat.で改善。
天候が急変していたので、いつもの気圧の変化によるものと思われる。
・・・それともレメディ摂取本チャン前の反応???
(28日の夕食後、エアコンの効いた部屋でうたた寝したのも原因かも)

ここ3日ほど、右わき腹あたりが時々痛い。

 

夢は・・・体調がしんどかったのでそれどころじゃなくって忘れてしまった・・・。

 

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では。