Amazonプライムの『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』に最近ハマっていた。
アメリカで生きるイタリア系マフィアを描いたテレビドラマで全6シリーズ86話を
やっと昨夜見終わった。あー、面白かった。

 

20191028ソプラノイズ

 

そんで、昨日観ていたストーリーの中で、
あるゴタゴタがあってニュージャージーを縄張りとした主役のマフィアのボスが、
対立するニューヨークのファミリーのボスに謝りに行くことを仲介役の人に説得され

「(相手に)ひざまずいて謝れ」

と言われるシーンがあった。

 

 

『Kneeling(ひざまずく)』については前回のブログにも書いたけれど、
あらためてレパートリーで検索したら(一昨日私のノートパソコンが壊れちゃって今はおとーが使っていたノートパソコンを借りているんだけど、色々事情があってマックレパートリーを見ることができないの( ノД`)シクシク…。だから地味にちまちまと本の方で検索しました)、

Mind – KNEELING  ⇒(See Praying)

となっていて、これって「Mind – Praying(祈る)」の項を見よ、ってことで、
なんだあ、Kneelingってそれだけで信心を表現する言葉になり得るんだ
と遅まきながら気が付いた。
ってことは、Sep.(セピア)って神に祈っただけで(「at church(教会で)」 なので、当時の社会背景からして相手はあくまでもキリストさんだよな)悪化するってことか⁈
ちなみに身体面で検索してみると「Generals – FAINTNESS – Kneeling in church, while:(教会でひざまずくと失神)」ってルブリクスに3点という高得点でSep.のみ登場する。

 

重症だな、おい。(´;ω;`)カワイソウ…

 

・・・いや、そんな風な解釈で前回書いてはいるんですが、
あれこれ深読みする以前に、ここんとこをちゃんと理解しておくべきでしたね (・ω<) テヘペロ。

 

 

 

で、マフィアのドラマの話に戻って、
「そっかー、日本人はそういう時は土下座なんだけど、あっちの人はひざまずくんだねー」
と思ったんです。
映画やドラマでも、ナイフやピストルの前で命乞いをする人って大抵ひざまずいているし
(今ふと思い出したけれど、スターウォーズでアナキンがデュークー伯爵の首をちょん切るシーンも伯爵はひざまづいていた)、
そういえば、あっちでは結婚を申し込むときって、男の人が女の人の前でひざまずいたりしてるよね。
先日の天皇陛下の即位の礼「饗宴の儀」のニュースで“カテーシー”の話題が盛り上がっていたけれど、
カテーシーというのは“ひざまずこうとする意思”を示している、とWikiにあった。

「敬意」や「相手に(自分の身を)委ねます」という意思表示とか、「屈服」やら「降参」とか、
そんなニュアンスが『Kneeling(ひざまずく)』という言葉に込められているんでしょうねぇ。。。
あくまでSep.にとっての大事なポイントは『at church(教会で)』 ってところ。
宗教性を忘れてはなりません。

 

 

 

色々と理解は深まったけれど、これを日本人に応用するのはチト困難かも。(*゚∀゚)ノアヒャヒャ.

 

 

 

と、ここまでは前回の続きでした。

 

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くだんの場面緘黙症の10歳の女の子、
親御さんに彼女の食べ物の嗜好について聞いたらこんなことを言っていた。

「赤い食べ物が好きで、イチゴ、スイカ、トマト、イクラ、鮭・・・特にイチゴなんて平気で4パック食べる」

 

Sep.は赤に感受性があります。

マテリアメディカには「赤で悪化」とありますが、
こういう時って悪化も好転も好き嫌いも混ぜて考えていいんです。これマメな。

 

そして、

Sep.はイチゴにも感受性があります。

こちらも同様に「イチゴで悪化」なのですが、いいんです、そのへんはだいたいで・・・。

 

(あくまでもこの2点をレメディの判断材料のメインにしてはいけませんよ)

 

 

 

いいよね~。赤は躍動する情熱の色。『生』=『性』の象徴。

 

 

 

『ダンス』と『赤』と『宗教』で連想するのがアンデルセン童話の『赤い靴』。

少女カーレンは赤い靴が大好きで、教会に行くときでさえ赤い靴を履き、周りからは白い目で見られてしまう。
ある日、赤い靴は勝手に踊り出し、靴を脱ごうにも張りついて脱ぐことができない。
とうとう首切り役人に「この赤い靴ごと私の足を切って下さい!」と頼んで足ごと切ってもらう。
心を入れ替えて教会に行こうとすると目の前を切り捨てたはずの足と赤い靴が踊りながら通り過ぎて・・・というホラーシーンも含みながら、松葉杖(本によっては義足)のカーレンは生き方を悔い、牧師館で住み込みで一生懸命に働き皆から可愛がられるが、そのうちに天使のお迎えが来てこの世を去る。・・・というあらすじ。

 

靴とは社会規範の象徴、って話を以前に「“Getting feet wet.”のホメオパシー的捉え方」に書いたけれど、
じゃあ『赤い靴』が象徴するものは何かっていうと、
月並みだけれど『その人らしさ』や『個性』といったものではないだろうか。
『その人が生きたかった人生(でも生きられなかった人生)』『魂が求めた生き方』ともいえる。

踊りながら目の前を通り過ぎていった“ちょん切られた足と赤い靴”とは、
“生殺しにした自分自身”、“死にきっていない魂の残骸”なんだろうか。。。

当時はキリスト教による父権主義の男性優位社会であり、女性が抑圧された生き方を強いられた時代。
『赤い靴』を足もろともに容赦なくとりあげた神様は随分と酷だな、と感じるし、
こういう話を「女の子は赤い靴なんて履いてはいけませんよ(女は従順で敬虔であれ)」的な教訓話として伝えてきた社会は悲しいなぁ・・・と思うわけです。

 

 

赤い靴と足を犠牲にすることでやっと教会に受け入れられたカーレンと、
『Kneeling at church.』で超悪化なのに、それを拒むことは許されないSep.の女性像が、
なんだかかぶるんですよ。

カーレンはSep.だったのかもしれないなぁ。

 

20191028赤い靴

 

 

『赤い靴』にまつわる話でもうひとつ書きたいことがあるけれど、
今夜はここまで。

 

では。