つるバラの“春がすみ”が満開。

202100513春がすみ1

 

 

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最初に断っておきますが、
今回のブログは「動物(ペット)には(これこれこのような)ホメオパシーのレメディがいいですよ~」といったご案内ではありません。
ホメオパシーを学んでいる方々を対象とした某ホメオパスのひとりごとです。

 

 

 

日々、虐待や遺棄といった動物にまつわるニュースを目にしない日はなくて、
動物主体の事件ではなくても、
例えばある事件の犯人が犯行前に猫等小動物を虐待する傾向にある、というのはよく聞く話。
動物にまつわる社会問題は今後も増えていくと考えられます。

 

・・・と堅苦しく書き始めましたが、
普通に動物虐待はアカンでしょ・・・っていうのが現代社会の一般認識。
でも明治生まれの私の祖母は動物一切を『畜生(ちくしょう)』と呼んでいて、
子供の頃に可愛がっていた鳥が死んで私がメソメソしていたら
「所詮畜生だ、泣くなっ!」と叱咤されたという、
そんな今の風潮から考えるとちょっと歪んだ幼少教育を受けたりしましたが、
でもね、動物に対する社会の見方、って時代とともに変容していくものだと思うんですよ。
私の祖母だけでなく、今の世の中でもすごーく田舎のかなーり年配の方で現代の社会情勢にもあーんまり関心のない方って動物に対しては割と辛辣な態度とったりしません?するよね?(これって偏見?)

 

動物愛護について考える時に思い出すのが平安時代の短編小説集「堤中納言物語」の中にある『虫めづる姫君』って話。
自分の身だしなみを整えることには一切興味がなく、
ひたすら昆虫ラブ💕な女のコ(Wikiには「化粧せず、お歯黒を付けず、ゲジゲジ眉毛のまま、引眉せず、平仮名を書かず、可憐なものを愛さず毛虫を愛する風変わりな姫君」と説明あり)を描いた短編なんですが、
これは“ほのぼの系”のエピソードとして作家は書いたのではなく、
「こんなめちゃめちゃ変わり者の女のコがいましたとさ (ヾノ・∀・`)ナイヨネ」とちょっとバカにした感じのお話なのだとどっかで読んだことがある。
・・・と今ソースを確認しようとしたけれどわからなくて(爆)どなたかご存じありませんか?
(ま、解釈なんてひとそれぞれだからどんなのもアリ、って思って読んで下さい)

「当時の型にハマらない女性の自立心・独立心について考えさせられる」といった見方もあるようですが、

それって現代の発想だよね?
この作品が書かれたのは平安時代だぜ?

って思うんですよ。
1000年近く前に「これが私よ」「ありのままの私を見て」的な主張をする女性を推す文学作品があったなんて思えない。

 

 

『虫めづる姫君』の話はこれくらいにしておいて。。。

 

 

 

最近、ペットの死を「虹の橋を渡った」と表現するのを耳にすることが多くなった。
最初に知った時は「ペット専門の新興宗教か?」と訝しんだんだけど、
ネットで検索すると、飼い主より先に亡くなったペットは虹の橋のたもとで飼い主を待っていて、飼い主がこの世を去った後にそこで再開を果たし一緒に天国に行く・・・・という作者不詳の散文詩「虹の橋(Rainbow Bridge)」が元になっているそうです。
ペットが単独で虹の橋を渡っちゃうってのは日本でのみの解釈らしくて、
そうすると元の詩の内容とは違ってくるのだけど、
まぁ、そこんとこはあんまりうるさいこと言わなくていいでしょ、ってなったのはいかにも日本らしい。

 

・・・そっかー、なるほどねー・・・・
実はキリスト教では動物は魂(←不滅の魂という意味)を持たないので天国に行くことができない、ってことになっているんです。
でもそんなのってペットを可愛がっていた飼い主からしたら耐えられないので、
現代になってこういう詩が生まれ周囲に受け入れられるようになったんでしょうね。

 

日本人だったら「勝手に虹の橋を渡って天国で待っていてくれる」と思えても、
キリスト教の教えの下ではあくまでも「橋のたもとで待っている」なんです。ひとりじゃ行けないんですよ。
なんだか切ないですよね。

 

 

つづく。
(あれっ?今日は全然ホメオパシーの話が出てこなかった(笑))