うちの日陰花壇のアジサイはほぼ満開です。ブルーのエンドレスサマー。大株になって逞しくなってきました。

20210528アジサイ青

こちらの白色はお化けアジサイとなった(笑)短く選定したのにもう私の背を超えた。

20210528アジサイ白

 

 

こちらは何日か前に作った“もち米シュウマイ”。もち米多め。中身はエビと豚肉。美味しくてかなり食卓が盛り上がりました٩(。˃ ᵕ ˂ )وイェーィ.

20210528もち米シュウマイ

カレー鍋。鰆のつみれ団子入り。

20210528カレー鍋

鶏肉のオイスターソース煮。煮汁でインゲンを煮たらこれがまた美味しくてね・・・。

20210528オイスターソース煮

 

 

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ももこの餌の残りをむさぼるてんまる。普段自分のエサ皿以外のご飯を食べると怒られるのでこちらの目が離れたすきを狙ってくる。現場を押さえたおとーが「こらっ!」と叫ぶとピューッと逃げるが、私が「こらっ!」と言うと食べるスピードが加速する(「早く食べたもん勝ち!」って思うのかな?)。私の方がナメラレテいるらしい(笑)

20210528てんまる

 

 

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三日程、久しぶりの後頭神経痛でダウンしていた。
一昨年は毎月1~2回は神経痛で寝込んでいたが、
徐々に徐々に頻度が減り今回の神経痛は7ヵ月ぶりのものだった。

多分ずっと摂っていたホメオパシーのレメディが本当に効いたんだと思う・・・(多分ね・・・)。
断言する自信がないのは神経痛ってほんとに治癒が難しいので。
これを患った人で完治した、って人はごくマレなのではないかと思います。

で、インド人ホメオパスのバナジー先生が
「神経の症状は急性でも1M」と言った通り、
私はその都度実験がてら30c、200c、1Mと試していたんだけど、
やはり1Mがすっきりと効くんですよ。
200cあたりで我慢して「このまま徐々によくなるんじゃないか?」と様子見していると大抵全身が痛くなってきて悪化するので、1Mがピンポイントなんだと思う。
「1Mって急性症状に対応するんだ ( ゚A゚)ホゥ.」とちょっとした衝撃だったんですが、
かと言って、もし神経痛持ちのクライアントさんのその都度の発作時に「1Mがいいですよ」って1Mのレメディを勧めるかというと、それはちょっとためらうなぁ。(一応、ポーテンシー慎重派のスクールを卒業したので)

そんでもって、今回はバナジー先生の処方で某レメディの10Mを摂っている時で、
「もし急性症状が起こった場合、他のレメディを摂るときは6cで」と言われていて、
いつもの神経痛に6cは無理だべ、って思っていたんだけどやっぱり無理でした。
そういうわけで今回も「30cならどうかな?」「200cは?」って徐々に上げていって、
「やっぱり1Mだったかー」な結論に至ったのですが、
「ひょっとしてプラシーボなんじゃないか?1Mじゃなきゃ治んない、って思いこんでいるだけかも?」
とイマサラな疑惑が生じてきて、
「あのさー、今度“盲検”ていうのかなぁ、プラセボと本物のレメディ用意して『どちらかどうぞ』って私にやってくんない?」
とおとーに言ってみたら、
【シュレディンガーの猫】なんじゃない?」
ってクスクス笑うのです。

 

 

「シュレディンガーの猫」ってなんですか? (´・∀・)ホワット?

 

 

おとーは食べ物のこと以外で何か呟くことはとっても珍しく、
たまにこういう風に知性の欠片が垣間見えたりする時があると普段とのギャップに萌えるんですよ(笑)

 

 

で、「シュレディンガーの猫」て一体何かというと、
1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた思考実験のこと。(←Wikiそのままコピペ)

簡単に言っちゃうと、青酸ガスが発生する箱の中の猫の生死は箱を開けるまで決定していない、
箱を開けるまでは、生きている猫の状態と死んだ猫の状態が重なり合って存在している、って意味。
(↑こんなざっくりでいいのかな(笑))

 

「ホメオパシーのレメディもね、【シュレディンガーの猫】なんじゃないか、って思う時があるんだよ」とおとーは言う。
なるほどねぇ、レメディの「効く」「効かない」は同時に存在している。そしてレメディを手にした時点で反応は決定する、って解釈でOK?
おもろいわ~。

 

ホメオパシーだけではなく、「シュレディンガーの猫」疑惑って多いような気がする。
私たちが何かアクションを起こしたときに物事が決定づけられるその時まで両面の現実が(既に)存在しているとしたら、
日々のあらゆることに今まではとは違う意識を向けることが出来るかもしれない。
箱の中の猫の生死は箱を開けるまでは確定していない。箱の中には死んでいる猫と生きている猫のどちらもいる。
私たちの人生もひょっとしたら同じなのかもしれない。
人生には可能性というものは実はなく、既にある現実のひとつを手に取っているに過ぎないということ。
皆さんも何か箱を開ける時には「シュレディンガーの猫」を思い出してください。
今までとは違う見方が出来るようになるかも?

 

では。