Identityがイカれちゃった文学作品(漫画含む)の紹介の前に・・・。
最近(といっても世情に疎い私が体感するくらいだから、だいぶ以前からなのかもしれない)
特に「私は私」「ありのままの私」ってやたら『私』を主張する傾向を世間に感じる。
これは特に海外のTVドラマを観てそう感じるんだけど、
日本では「私らしさ」「私らしく生きる」という言葉で日本人向けにニュアンスが多少変化されてるのは、
日本人は欧米人のように意識的な「自己」のみが「自己」だとは思ってないからで(このへんは昨日書きました)、
だから「私は私である」ことに特に異論は感じてなくて、
ゆえに「~らしさ」という日本人が好むぼやかし方で世の中を今風(欧米化)に扇動しているんじゃないだろうか。どうだろう?
先日、心理療法家の河合隼雄氏の本を読んでいたら、
たまたまアイデンティティについての記載を見つけて、
そこでは現代のアイデンティティの概念を植え付けたのはアメリカの心理学者のエリクソンという人だと書いてあった。
このエリクソンが分析に用いたアイデンティティの捉え方がアメリカで非常に流行って、
今日までの流れができたらしい。
エリクソンは1902 – 1994年の人だから、ホメオパシーが誕生して100年位たってからの話。
・・・・ということはだ。
欧米人のidentityと日本人のidentityは違うどころか、HomeopathyのMMに登場するidentityと現代のidentityも違うってことにならないだろうか・・・。
・・・・いや、ちょっと待てよ。
MMの記載にidentityという言葉が登場したのはハーネマンの時代よりずっと後のことだった、って可能性もあるな・・・・(それこそエリクソンが提唱しだした頃に登場したのかも)
これ以上追及しても、それほど(ホメオパシー的には)役に立つこともなさそうなのでこれくらいにしておきますが、以上のことは頭の中に留めておいた方が良さそうだと感じます。
私のイメージとしてはこんな感じ。
↓
『欧米人のidentity』≠『日本人のidentity』
『200年前のidentity』≒よりの≠(或いは≠よりの≒?)『現代のidentity』
もう眠いのですが、アイデンティティの混乱を描いた話をふたつだけ記述しておきましょう。
高倉輝『印度童話集』(アルス 日本児童文庫〈14〉1929年)にある話で(実はこの本は手元にないのですが有名な話ですのでネットでいくらでも検索できます)、
ある旅人が二匹の鬼の喧嘩に立ち会って片方に有利な判定をする。不利になった鬼は怒って旅人の片腕を引き抜いてしまう。有利にしてもらった鬼は旅人を気の毒に思って死人の片腕をちぎって代わりにつけてくれるのだが、もう片方の腕もやはり同じようにして付け替えられてしまう。そして今度は足をちぎられ又付け替えられ・・・・このようにして旅人の身体が全部死人のものに付け替えられてしまったとき、旅人は混乱する。
「今ここにいる自分の身体は死人の身体だ。私はいったい私なのか?」
旅人は近くのお寺に駆け込み、お坊さんに「私の身体はあるのでしょうかないのでしょうか。私は一体だれなんでしょう?」と尋ねると、「“我(われ)”に固執するなかれ」という答えが返ってきました。
う~ん、いかにも仏教的な説話ですねぇ。σ(-д-`*)フム…
日本にも面白い説話があります。
中世の一時代前に書かれた『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の中に、死んで閻魔さまのところにやってきた女性が許しをもらい現世に戻ろうとするが既に身体は火葬されている。閻魔様は「たった今死んだ(ある)女の身体に入れ」という。女は生き返った途端「ここは私の家じゃない、おかしい」と自分の実家に帰ると、実の両親に「おまえはうちの子じゃない、うちの子は火葬にした」と言われる。女は生き返った経緯を詳しく説明し、結局女は四人の父母と仲良く暮らしました。
河合隼雄氏は「これは極めて日本的な終わり方」と称し、
論理的な解決を考えず、論理的追及をやめてひとつの実際的な解決策に持っていくところが印象的だと書いています。
『論理的な解決を考えず、論理的追及をやめてひとつの実際的な解決策に持っていくところ』が日本的ってか?(笑)
(おっと、こっちの説話にはアイデンティティの混乱はなかったね・・・混乱してもよい状況だったのに(笑))
今日はここまで。
(今日はちょっと真面目過ぎてつまらなかったかも。明日はもっと面白く書くよ!)
では。