一昨日の鍋。鶏の胸肉と豚肉を入れました。今週は課題で忙しいのでずーっと鍋で行きます。
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今夜は石狩鍋。珍しく私に食欲がなく(おやつを食べ過ぎた)、そういう時って美味しそうに仕上がらない。
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森鴎外の「自筆」原稿、模写でした 宮城の資料館に実物
10/4(水) 10:33配信 朝日新聞デジタル
森鷗外(1862~1922)最後の史伝「北条霞亭(かてい)」の自筆原稿とされてきた神奈川近代文学館所蔵の原稿が、昭和前期に鑑定を依頼された医師で文学者の木下杢太郎〈もくたろう〉(1885~1945)がそっくり書き写したものだとわかった。宮城県亘理町立郷土資料館保管「江戸清吉コレクション」(個人蔵)で、これと同じ鷗外の自筆原稿が確認されたためだ。中島国彦早稲田大名誉教授が同文学館の機関紙に調査経緯を発表した。
1917(大正6)年10月末から東京日日新聞と大阪毎日新聞で始まる連載原稿の冒頭1回分。自筆原稿は、鉛筆書き、縦約27センチ、横約19センチ前後の紙9枚が和装本に仕立てられていた。一方、模写は墨書で、縦約28センチ、横約40センチ、黄色の和紙計6枚。自筆の2枚分が横長1枚に書かれる。行数、字詰めは自筆原稿と同じ、書き込みや付箋(ふせん)を貼った修正箇所もほぼ同じだった。ただ、自筆原稿には「二十六日着」という朱筆など編集者のものと思われる書き込みがある。
「江戸コレクション」は明治から昭和前期にかけ亘理町に暮らした豪商・江戸清吉が収集したもので、夏目漱石の「文鳥」原稿なども含まれている。78年の宮城県沖地震で存在が明らかになり、「北条霞亭」の原稿の存在は一部で報告されていたがその成果は埋もれ、同文学館所蔵の模写が自筆として通用、展覧会などで出品されていた。2011年の東日本大震災で津波をかぶったコレクションが注目され、中島さんの調査で自筆原稿の存在が再度明らかになった。
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まずは記事のタイトルの「鴎外」は違うね。「鷗外」が正しい。
森鷗外といえば子供たちに付けた名前が『キラキラネームのハシリ』と揶揄されることが多い。
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長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
長女 茉莉(まり、随筆家・小説家)
次女 杏奴(あんぬ、随筆家)
次男 不律(ふりつ、夭折)
三男 類(るい、随筆家)
孫・爵(じゃく、茉莉の子)
全員が当時としては異色の名前だったが、これは本人の名前「林太郎」が外国人には発音しづらかったことから来ているもので、世界に通用する名前にしようとしたため。ちなみに孫・爵(茉莉の子)も鷗外の命名による。
(以上Wikiより)
それと、これまた全然違う話になるが、
森鷗外って、軍医として陸軍軍医のエライさんだったんだけど、「脚気とビタミンは関係ないぞ!!」って主張し続け(実際に米食を麦飯に変えて脚気患者が激減しているのを目の当たりにしても譲らなかった)、麦飯を禁止し、結果陸軍では約25万人の脚気患者が発生し約2万7千人が死亡した大惨劇を引き起こしたんだよね。。。
山椒大夫とか高瀬舟とかいい作品残してるのに、あれこれツッコミどころの多い人物。
いやいやそんな話を書こうとしたんじゃなくって(笑)
木下杢太郎って、私が住んでいるこのあたりの人にとったらお馴染みの人(だと思う)。
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伊東に『石舟庵』というお菓子屋さんの本店があって、支店がうちの近所にもある。
たまにおとーと買いに行く。プリンや生シフォンが美味しいんだよ。ゴックン。。。
このお店の商品は、伊東出身の木下杢太郎氏にちなんで、お菓子のデザインやらパッケージなど彼の書いたスケッチ画が使われているのだ。
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緻密だけれど、ほのぼのと素朴な絵柄。
お店の雰囲気にもよく合っていて、いつも素敵だなぁ、とパッケージを見て楽しんでいる。
で、ですね、
この記事を読むと、まるで木下杢太郎氏が盗作だか贋作だかしたような書き方をしているけれど、
それはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思ってしまう。
彼がたくさんのスケッチ画を残していたように、
当時彼がリスペクトしていた森鴎外の作品をスケッチした、といったニュアンスの方が近そうな気がする。
木下氏は植物画で有名なだけではなく、医師としても立派な業績をあげた方で、
眼上顎部褐青色母斑という顔にあざができる病気を発見したので、現在この病気は全世界で太田母斑と呼ばれているのだそうだ(木下氏の本名は太田)。
だから、これ(書写原稿)はこれで、それなりの値打ちがあるものだと思うんだよね。
・・・・ってことまで詳しく書いて欲しかった記事でした。
では。