もう今年も残りわずか。
三カ月近くもブログを更新していなくて、
このまま年越ししてしまうと心残りなので頑張ってななこの最期を書こうと思いました。
ななこは10/2の日付が変わったばかりの深夜に息を引き取り、おとーと私で選んで買った花を添えて翌日火葬した。
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動物病院で“宣告”を何度も受けた8月以降、ななこと私は夜は一緒にベッドで寝ていて、
私のお腹の上に乗る元気がなくなってからは横たわったまま頻繁に私の脇腹を両足でフミフミして甘えていた。
そのうちにそれすらも出来なくなって只ひたすら傍らでうずくまっているだけになって、
「こうやって徐々に動かなくなってサヨナラなのかな」と考えていた矢先(亡くなる二週間位前)、
ななこの夜中の徘徊が始まった。
立ち上がって一歩踏み出すのもやっとといった体だったのに、
どこからそんな力が湧いてくるのか、
気付けば(水の抜けた)浴槽の中にうずくまっていたり階段を上がって2階のリビングに居たりする。
ななこの居ない気配で目が覚め、慌ててウロウロしているななこを探し出し
私のベッドに連れ戻しても暫くして又ベッドから抜け出しウロウロし始める。
せん妄状態に入ったようだった。
ケージに入れることもチラッと考えたんだけど余程の危険を感じない限りは好きにさせようと決めた。
原因不明のどろどろの目ヤニが数日流れ出た後、瞳孔の開ききった乾いた眼で目前の一点を凝視している時間が長くなった。
見ているようで何も見ていなかったのかもしれない。
もう以前のように目と目で会話できる状態ではなく、
ななこの無機質な目を見ていると悲しくて胸が詰まる思いだった。
そんな日々が続いて、
とうとう10/1の夜おとーに「ななこはもう何日も眠っていないの」って伝えた。
「夜は徘徊しているし、日中はじっとしているけれど寝ていなくて・・・。ずっと瞳孔が開いたままで瞬きもしていないんだよ」
徘徊は勿論承知していたけれど“瞬きもしない”という状況はおとーにも衝撃だったらしい。
「このままの状態で死なせたらダメだよ」
私はおとーの言葉の意味がよくわかった。どうすべきかはとっくにわかっていた。
「TARENTULA CUBENSIS を使おうか」とおとーの言葉に頷くだけだった。
“TARENTULA CUBENSIS”とは【死の痛みの救済策】【最後の戦いを落ち着かせる】という効果のあるホメオパシーのレメディで私はまだ使用したことがなかった。
今迄ななこをなんとか救いたくてさんざんマッチしていると思われるレメディをあげてきて、
でも最後は“ラクに死なせる”レメディを選ぶなんて、なんだか勝手過ぎて本当に辛かった。
ななこを抱き上げて乾ききった口元にレメディを放り込んで、
その後はお互いがお気に入りのビーズクッションにふたりして頭を載せおでこを突き合わせて横になった。
ななこは2度ほどケホっと咳のようなものをした後、珍しくウトウトと眠りだして、
その後2時間半ほど経って突然目をかっと見開き少量の水を嘔吐し、まるでしゃっくりをあげるように息を深く吸って、そして心臓が止まった。
おとーに最後の呼吸は“死戦期呼吸”というもので実際に息は吸えていないんだよ、と後で教えてもらった。
少なくとも断末魔の苦しみは見受けられなかった。ウトウトしている最中に一瞬にして息絶えたので、それだけは私にとって救いです。
以上が顛末です。
実はななこの死の翌月、後を追うようにココも亡くなりました。
その話は又違う日に。
長い間、私自身がなかなか“迷走”から脱しきれていなかったのですが、
日常は流れて行って、時間が何よりの良薬なのだと実感しています。
ななこやココが亡くなった直後は、多くの後悔や自責の念で気を緩ますと涙がこぼれ落ちそうで、
それが今ではひたすら寂しさに襲われています。ただただ会いたい。
先日、ホメオパシースクールの後輩から「最近ブログ更新していないけれど大丈夫?」と気遣いのラインがあり、
「猫は死んだんだよ・・・大丈夫だよ、ありがとう」って返信して世間話を繰り広げた後、
「元気そうで良かった」と返ってきた。畳みかけるように二度も「元気そう」と言われた。
・・・元気なわけあるか、ボケーっ!!
脳みそか人間性に問題あるぞ、オマエ。凸(`Д´メ)FUCK YOU
ひろゆきの「それってあなたの感想ですよね」ってお決まりのフレーズを呟きながらなんとか喧嘩売らないでサヨナラしたんだけど、彼女は喪失感というものを経験したことのない人なんだろうか。
安っぽくて大袈裟な同情って苦手だから元気に振舞って、
振舞っているうちに実際に元気が出てきたりもするから相手には感謝なんだけど、
大事な人やペットを失った後って自分が癒えることに‥‥‥自分ばっかりがこちらの生の世界で癒えていくことに罪悪感を持ちやすいんだな、と改めて感じた。
だから「元気そうね」と言われるとムッとしちゃうんですよ。
オイオイ泣いたり落ち込んだり自分や誰かを責めたてたところで、それが亡くなった相手に対するレクイエムにはならない。
そんなことはわかっているけれど、でも“冥福を祈る”といった生易しい行為ではこんな溢れまくる悲しみなんか癒えっこない。
でもね、
「ボケー、カスー、それでもオマエはセラピストかー?」って腹を立てていたらなんだか元気が出てきた(苦笑)
アドレナリンの有効活用って感じかしら。
・・・と、こんな感じで元の私に戻りつつあります。
実はブログを書かなかった間におとーの転職と引っ越し騒動がありました。
現在は焼津に住んでいます。
そのお話も追々書いていきますね。
では。