オダマキの花芽があがってきた。
種からの発芽して3年。やっと花をつけた♪
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今夜は冷凍してあった塩麹漬けスペアリブをオーブンで焼いた。
サラダは大根とラディッシュとかぼちゃと大豆と葱(冷蔵庫の整理)。
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里芋の煮っころがし。おとーが満面の笑みで「美味しゅうございます」と言ってくれた(笑)
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ネタバレありです。
おとーが昨日から「“悼む人”、どうだったの?」と私の感想を知りたがっていた。
う~んんんん・・・・・・・・・
主人公の坂築静人は不慮の死を遂げた人々を“悼む”ため、全国を放浪する話。ってのは前のブログで書いた。
新聞・ラジオ・雑誌で死亡記事をチェックし、故人が亡くなった場所に赴き、
個人を知る周囲の人物に
「その人は、誰に愛されていたでしょうか」
「誰を愛していたでしょう」
「どんなことをして、人に感謝されたことがあったでしょうか」
と問いかけ、「心に刻ませて頂きます」とそこで膝を地につけ、
右手を空に左手を地に向け、それから胸の前で手を合わせる。
彼はその行為を「悼ませて頂きます」「悼ませて頂きました」と表現する。
主人公は、
「亡くなった人の人生の本質は、死に方ではなくて、誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたかにある」
と言うのだが、
私はそれは違うと思う。
「誰を愛し、誰に愛され」はまぁいいとして「何をして人に感謝されたか」ってそれって “悼む” に必要不可欠な項目だろうか。なんだよ、そんな他人の評価が必要なのかよ。ほんと余計なお世話だと思ってしまう。あんたよっぽど人に感謝されたいんだね、と意地悪な感情を抱いてしまうんだよ。
「心に刻ませて頂きます」っていうのだって、「人に忘れられたくない」って作家の心の裏返しで、
それって人それぞれだと思うんだよね。
ちなみに私だったら自分のことはさっさと忘れて欲しい。
いつまでも「あの人はあーだった。こーだった」なんて思われていたら気持ち悪い。
生きている人には生きている人の己の人生をしっかりと歩んで欲しい。
この主人公は紛れもなくこの作品の作家の分身であって、
おそらく作家自身も似たような「悼み方」をしてこられたのではないか、と推測した。
それはそれで結構なことで(悼むスタイルなんてひとそれぞれだしね)、何もこちらは言う筋合いがないのだが、
この「悼み方」に不快感を生じる人もいる(私も含めて)、というのは作者なりにわかっていたらしく(この作家はバカじゃないみたいだ)、
主人公には「これは自己満足です」と言わせている。
自分が満足するために勝手にやっている行為・・・こう言われちゃうと「あ、そ。好きにすればいい」と譲歩しかけるのだが、
そのくせ、この主人公を取り巻く重要人物達に主人公をリスペクトさせている。彼に追随させているのだ。
キモい。
ただの自己満足ではなく、作家の強い自己愛、自画自賛を感じちゃって、
どうしてこれが直木賞?
直木賞ってたいしたことねーなっ!
と、つくづく感じちゃいました。
久々に口の悪いブログで、おとーが大喜びしそうなんだが(おとーは私の口の悪さに惚れたんだよ)、
上記のうんぬんかんぬんとは違う意味で、主人公(&作家)に対してダメ出しをもうひとつ。
「あんたねー、こんなことやっていたら、変な霊がしこたま寄ってくるよ?」
死人が出た現場で跪き手を合わせ誰彼かまわず故人に思いをめぐらす、っていうのは明らかにマズイでしょ。
こういうことは宗教家か霊能者に任せるべきだと思うんだよね。
主人公のような普通の一般人がやったらすぐ具合が悪くなるだろうし、長生きできないね、こりゃ。
というわけで、不快な上下2巻の小説を読み上げて、それでも途中でやめなかったのは、
いつか大どんでん返しがあるんじゃないか?って期待があったのと、
あとはねー、いつも同調する本ばかり読んでいるとアタマが悪くなる、ってコラムをネットで読んだのもあるかな。
「あー、そーだよねー。うんうん」ていう感想と
「えー?、私は違うと思うな。どうしてかっていうと・・・・」という感想では、
その後の思考の量が全然違うからね。
という意味では、凄くいい刺激になった本でした
では。